【日本神話】黄泉平坂を下るイザナキ
イザナミの死を諦めきれないイザナキ
火の神を産んだことにより、焼け死んでしまったイザナミ。かけがえのない妻を失ったイザナキの嘆きは一通りではなく、いつまでも冷たくなった体を離そうとはしませんでした。そして、妻を焼き殺した火の神カグツチを剣で切り殺してしまいます。
どうしても妻の死を諦めきれないイザナキは、彼女をもう一度取り戻そうとして、とうとう地価の死者の国である黄泉の国まで下りていきました。黄泉の国の御殿までたどり着くと、イザナキは大声で呼びかけました。
「愛しい妻よ、わたしにはあなたがどうしても必要だ。どうか帰ってきてくれ」
その声を聴いて、イザナミは御殿の扉のむこうから返事をしました。
「なぜあなたはもっと早く来てくれなかったのでしょう。わたしはもう、黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。この国の食べ物を口にすると、もう地上には戻れないのです。けれども愛しい夫のあなたが来て下さったのだから、黄泉の国の神に頼んでみましょう。それまで待っていてください。でも、一つお願いがあります。扉を決して開けないでください。わたしの姿を見てはいけませんよ」
死の国の食べ物を口にすると、もう戻れなくなる――――これは世界中にある逸話です。今日の葬儀の中でも、死者に供える食べ物と参列者の食べ物ははっきりと分けてあります。
「決してわたしの姿を見ないでくれ」と言われたイザナキは、ひたすら御殿の外で待ち続けます。しかし、いくら待っても御殿はしんとして、妻が戻ってくる気配がありません。不安が募ってきたイザナキは、とうとう言いつけに背いて髪に挿した櫛を取り、その歯を一本折って火を付けます。そして、御殿の戸を開けると、火の明かりをかざして中をのぞいてしまったのです。
赤々と照らされた部屋の中をのぞいたイザナキは、アッと叫んでよろめきました。
そこに横たわっていたのは、腐ってウジが沸き、ゴロゴロと音を立てる変わり果てたイザナミの姿だったのです。
イザナキとイザナミ、永遠の別れ
「火」によって焼け死んだイザナミ。そして今また「火」によって死者の姿を暴き出され、イザナミは永遠に死んでしまったのです。生の世界に連れ戻そうとしてやって来たイザナキは、「火」を使って愛する妻を永遠に失ってしまったのでした。
イザナミは大地の女神であり、生きとし生けるものすべてを生み出す豊穣の女神です。しかし、今イザナキが目にした腐乱しきったイザナミは、死んだものすべてを飲みつくそうとする死の女神としての姿でした。
大地は命を産み、そしてまたすべてを土に還して飲み込んでいきます。豊穣の女神は同時に、死の女神という恐ろしい反面を持っているのです。
イザナキは妻のこの恐ろしい反面を初めて目の当たりにし、悲鳴を上げて逃げ出しました。その様子を見たイザナミは
「よくもわたしに恥をかかせた」
と叫んで、彼女の分身である黄泉醜女たち(よもつしこめ)に追いかけさせました。
イザナキは必死に逃げながら、つるでできた髪飾りを後ろに投げます。それはたわわにブドウが実る木となり、醜女たちがそれを貪り食っているあいだにまた逃げます。
再び追いつかれそうになった時、今度は櫛を投げます。櫛はタケノコになり、また醜女たちはそれを食べ、その間にイザナキは地上にたどり着きました。
地上には桃の木が生えていて、イザナキは桃の実を取って投げました。そして醜女たちがそれを食べている間に、巨大な岩を動かして、死者の国の入り口をふさいでしまいました。この岩を千曳の岩(ちびきのいわ)と言います。
イザナミはこの岩の後ろまで追いかけてきて、岩越しに叫びました。
「愛しい人よ!あなたがこんなことをするならば、わたしは地上の人間を一日に千人殺そう」
イザナキは答えて言います。
「愛しい我が妻よ!あなたがそう言うならば、わたしは一日に千五百人の人間を産み出そうぞ」
こうして、人間は毎日死んでいくが、また毎日新しい人間が生まれるようになったのです。イザナキとイザナミが決別することによって、生と死ははっきり分かれることになったのでした。
決別する会話でも、「愛しい人」「愛しい妻」と叫ぶこのくだりは日本神話ならではです。絆は永遠であり、たとえ別れることになっても忘れえぬ存在ということなのでしょう。