【山中鹿介の生涯!】「三日月の影」全文を載せたよ
尋常小学校五年生の国語教科書に載っていた、幻の名作「三日月の影」(昭和13年1月翻刻発行)を手に入れました!
かなり貴重だと思うので、全文をここに載せておきます。
「三日月の影」とは、山中鹿之介の生涯を簡潔な名文で綴ったもので、昭和2年から昭和20年まで国語の教科書に使われていました。
作者は井上赳氏、挿絵(ここにはありませんが)は和田三造氏。
ここに載せたものは、「山中鹿介のすべて」米原正義編、新人物往来社の155頁から162頁から抜粋しました。
「三日月の影」全文
(注)全文旧字体です。ルビは()で書きます。
第十六
三日月の影
『重代の冑(かぶと)』
甚次郎(じんじらう)は、兄に呼ばれて座敷へ行つた。見れば、母もそこにゐた。床の間には、すばらしく大きな鹿の角と三日月の前立との附いた冑がかざつてある。兄は、改まつた口調で言つた。
「甚次郎、此の冑は祖先傳來の寶、これをお前にゆづる。十歳の時、軍に出て敵の首を取つた程强いお前のことだ。どうかりつぱな武士になり、家の名をあげてくれ。」
甚次郎は、胸がこみ上げるやうに嬉しかつた。
「ありがたく頂戴(ちやうだい)いたします。」
と言つて頭を下げた。母はそばから言つた。
「それにつけて、御主君尼子(あまご)家の御恩を忘れまいぞ。尼子家の御威光は、昔にひきかえておとろへるばかり、それをよいことにして、敵の毛利(まうり)がだんゝゝ攻め寄せて來る、成人したら、一日も早く毛利を討つて、御威光を昔に返しておくれ。」
甚次郎の目は、何時の間にか淚で光つてゐた。
甚次郎は、此の日から鹿介幸盛(しかのすけゆきもり)と名乘り、心にかたく主家を興すころをちかつた。さうして、山の端にかゝる三日月を仰いでは、
「願はくは、我に七難八苦を與え給え。」
と祈つた。
『一騎討』
數年は過ぎた。尼子の本城である出雲(いづも)の富田城(とだ)は、其の頃毛利軍に圍まれてゐた。
鹿介は、戰つてしばゝゝ手がらを立てた。彼の勇名は、味方のみか、もう敵方にも知れ渡つてゐた。
敵方に、品川大膳(だいぜん)といふ荒武者がゐた。彼は鹿介を好き相手とつけねらつた。名を棫木狼介勝盛(たらぎおほかみのすけ)と改め、折りもあらば鹿介を討ち取らうと思つた。
或る日のこと、鹿介は部下を連れて、城外を見廻つてゐた。川をへだてた對岸から、鹿介の姿をちらと見た狼介は、破鐘(われがね)のやうな聲で叫んだ。
「やあ、それなる赤絲威(をどし)の甲は、尼子方の大将と見た。鹿の角に三日月の前立は、正しく山中鹿介であらう。」
鹿介は、りんとした聲で大音に答えた。
「いかにも山中鹿介幸盛である。」
狼介は、喜んでをどり上つた。
「かく言ふは岩見(いはみ)の國の住人、棫木狼介勝盛。さあ、一騎討の勝負をいたさう。あの川下の州こそ好き場所。」
と言ひながら、弓を小脇にはさんで、ざんぶと水に飛込んだ。鹿介もたゞ一人、流を切つて進んだ。
狼介は弓に矢をつがへて、鹿介をねらつた。尼子方の秋上伊織介(いおりのすけ)がそれを見て、
「一騎討に、飛道具とは卑怯千萬(ひけふ)。」
と、これも手早く矢をつがへてひようと射る。ねらひ違はず、狼介が満月の如く引きしぼつてゐる弓のつるをふつりと射切つた。味方は「わあ。」とはやし立てた。
狼介は、怒つて弓をからりと捨て、州に上るが早いか、四尺の大太刀を抜いて切つてかゝつた。しかし、鹿介の太刀風はさらに銳かつた。何時の間にか狼介は切立てられて、次第に水際に追ひつめられて行つた。
「めんだうだ。組まう。」
かう叫んで、狼介は太刀を投捨てた。大男の彼は、鹿介を力で仕止めようと思つたのである。
二人はむずと組んだ。しばらく互に呼吸をはかつてゐたが、やがて狼介は滿身の力をこめて、鹿介を投附けようとした。鹿介は、それをしつとふみこたへたが、片足が洲の端にすべり込んで、思はずよろよろとする。忽ち狼介の大きな體が、鹿介の上にのしかゝつた。鹿介は組敷かれた。兩岸の敵も味方も、思はず手に汗を握る。
とたんに、鹿介はむつくと立上つた。其の手には、血に染まつた短刀が光つてゐる。狼介の大きな體は、もう鹿介の足もとにぐたりとしてゐた。
「敵も見よ、味方も聞け。現れ出た狼を、鹿介が討取つた。」
鹿介の大音聲は、兩岸にひゞき渡つた。
其の後幾度か烈しい戰があつた。さしもの敵も、此の一城をもてあましたが、前後七年にわたる長い籠城(ろうじやう)に、尼子方は多く戰死し、それに糧食(りやうしやく)がとうゝゝ盡きてしまつた。城主義久(よしひさ)は、淚をのんで敵に降つた。富田城には、毛利の旗がひるがへつた。
『苦節』
尼子の舊臣は、淚の中に四散した。鹿介は、身をやつして京都へ上つた。
戰國の世とはいへ、京都では花が咲き、人は蝶(てふ)のやうに浮かれてゐた。
其の中に、尼子の舊臣が追々京都に集つて來た。彼等は、鹿介を中心として、主家の再興をくはだてた。
其の頃、京都の或寺に、人品のよい小僧さんがゐた。さうして、それが尼子方の子孫であることがわかつた。鹿介は、此の小僧さんを主君と仰いだ。
「尼子家再興のことは、我が年來の望である。」
小僧さんは、雄々しくもかう言つて、ころもを脫捨て、尼子勝久と名乘つた。
時は來た。永祿(えいろく)十二年六月の或夜、勝久を奉ずる尼子勢は出雲に入り、一城を築いて三度ときの聲を作つた。
此の聲が四方に呼掛けでもしたやうに今まで敵に附いてゐた舊臣が、續々と勝久のところへ集まつた。諸城は、片端から尼子の手に﨤つた。しかし、富田相は名城であるだけに、中々落ちさうもなかつた。
其の間に、毛利の大軍がやつて來た。輝元(てるもと)を大將とし、吉川元春(きつかわもとはる)・小早川隆景(こばやかはたかかげ)を副將として、一萬五千の精兵が堂々と進軍して來た。
富田城がまだ取れないのに、敵の大軍が押し寄せたのでは、味方の勝利がおぼつかない。しかし、鹿介は腹をきめた。すべての軍兵を率ゐて、富田城の南三里、布部山(ふべやま)に敵を迎へ討つた。味方の軍は約七千であつた。
まことに死物狂いの戰であつた。敵の前軍はしばしばくづれた。しかし、何といつても二倍以上の敵である、新手は後から後から現れる。さしもの尼子勢もへとゝゝに疲れ、多くの勇士はむざんや枕を並べて討死した。
勝ち誇つた敵の大軍は、やがて出雲一國にあふれた。勝久は危くのがれて、兩び京都へ走つた。
『上月城(かうづきじょう)』
それから又幾年か過ぎた。鹿介は、織田信長(おだのぶなが)に毛利攻めの志があることを知つて、彼をたよつた。鹿介を一目見た信長は、此の勇士の苦節に同情した。
「毛利攻めの御先手に加り、若し戰功がありましたら、主人勝久に、出雲一國を頂きたうございます。」
鹿介の血を吐く言葉に、信長は大きくうなづいて見せた。
遂に再び時が來た。尼子の殘黨(ざんたう)は、秀吉(ひでよし)の軍勢に加つて、毛利攻めの先鋒(せんぽう)となつた。
いち早く播磨(はりま)の上月城を占領して、こゝにたてこもつた二千五百の尼子勢は、程なく元春・隆景の率ゐる七萬の大軍にひしゝゝと取圍まれた。
秀吉の援軍が今日來るか明日來るか、それを賴みに勝久は城を守つた。毛利方の大砲を夜に乘じてうばひ取つて、味方は一時氣勢をあげた。
しかし、援軍は敵にはゞまれて近づくことが出來なかつた。七萬の大軍に圍まれては、上月城は一たまりもない。弓折れ矢盡きて、勝久はいさぎよく切腹することになつた。
「いたづらに朽果てたかもしれぬわたしが、出雲に旗あげして、一時でも其の領主となつたのは、全くお前の力であつた。」
勝久は、かう言つて鹿介に感謝した。
鹿介は、男泣きに泣いて主君におわびをした。しかし、彼はまだ死ねなかつた。尼子重代の敵毛利を、せめて其の片われの元春を、おのれそのまゝにして置けようか。七難八苦は、もとより望む所である。鹿介は主君に志を告げ、許をもうてわざと捕はれの身となつた。
『甲部川(かふべ)の秋』
鹿介は西へ送られた。
こゝは備中(びつちゅう)の國甲部川の渡である。天正六年七月十七日、秋とはいへ、まだ烈しい日光が、じりゝゝと照りつけてゐる。
川端の石に腰かけて、來し方行末を思ひながら、鹿介はじつと水の面を眺めた。つばめが、川水すれゝゝに飛んでは、白い腹を見せてちう返りをしてゐた。
とつぜん後から切附けた者がある。鹿介は、それが敵方の一人河村新左衛門(かはむらしんざえもん)であると知るや、身をかはして、ざんぶと川へ飛込んだ。二人はしばし水中で戰つたが、重手を負ひながらも、鹿介は大力の新左衛門を組伏せてしまつた。すると、これも力自慢(じまん)の福間彥右衛門(ふくまひこえもん)が、後から鹿介のもとゞりをつかんで引倒した。
七難八苦の生涯(しゃうがい)は、三十四歳で終を告げた。
甲部川の水は、此のうらみも知らぬ顏に、今もいういうと流れてゐる。月毎にあの淡い三日月の影を浮かべながら。
名文だ……
これが五年生の国語とは驚きですね! この格調の高さ。無常観。現在でも歴代国語教科書の中で、きっての名文だと評価が高いそうですよ。
これは、現在わたしが山中鹿之介の本を執筆している中で発見した資料です。
本が書けたら読んでね。